ABSTRACT
DETAIL
近年、情報を社会的に広く散布する目的で、あるいは互いに意見や感想を迅速かつ簡便にやり取りするために、多くの人々がSNSを用いるようになった。筆者自身はそうした技術を使いこなせないので、その社会的・心理的影響について実体験に基づく議論はできない。ただ、様々な問題と危惧が指摘されていることは報道されている通りだ。特に選挙で候補者に関する「ニセ情報」が、人々の投票行動に多大な影響を与えているとの主張は、日本だけでなく欧米や東アジアの国々でも指摘されている。ソーシアル・メディアがわれわれの心理や行動をどれほど、どのような形で変容させるのかについての研究は少なくないが、現段階でどれほど確かなことが分かっているのか、断言は難しい。
この問題を考える場合、ウソの(事実に反する)情報を広めることと、ある事実をどう伝えるのかは、性質を異にする問題だ。単純化すれば、前者は「嘘」や根拠のない情報を拡散させることの是非であり、後者はある事実を「都合よく編集して」ひとを誘導することの是非だ。確かに、ある事件や社会現象を取り上げる場合、全体のいかなる側面に注目するか、それをどのように語るのかによって、読者への影響は異なってくる。コップ一杯に注がれた酒を半分飲み干して、「もう半分も飲んでしまった」と惜しむのか、「まだ半分残っている」と語るのかによって事柄のイメージは異なる。
実はこの問題は、程度の差こそあれ格別新奇な問題ではない。「デマ」がいかに社会を大きな混乱に陥れ、人間の集団をとんでもない行動へと走らせるのかは、「メディア学」の専門家たちが歴史的な事例を沢山丹念に分析してきた。
近代社会におけるマスメディアのチャンピオンとも言える新聞が、中立・公正を旨としても、どの事実を報道するのかしないのか、その選択の段階ですでに政治的な判断が入ることは否めない。先の例で言うと、コップの酒が「もう半分しかない」と書けば、社会にペシミスティックな雰囲気を醸成する。逆に「まだ半分ある」と報道すれば、読者は何とかなると希望を持つかもしれない。
メディアのディレンマ
大正から昭和に入り、日本の新聞社は企業として大きく成長した。と同時に、ある種のディレンマを抱えることになる。新聞社を企業体として経営していくためには、どうしても安定的な経済基盤が不可欠になるからだ。新聞の場合、収入の主要部分は広告料と購読料である。従って、できるだけ多くの読者と広告主を獲得しなければならない。ネットのニュースも同じだ。
発行部数を増やそうとすれば、おのずとたくさんの人、様々な方面への配慮が必要になる。人は多くの場合、自分と同じ意見を言ってもらえれば安心する。不愉快になるような記事も読みたがらない。その結果、過半の読者の感情(popular sentiment)に逆らうことが難しくなり、公論(public opinion)としての議論は生まれにくくなる。
ではメディアを国が独占すればよいのかというと、国の検閲を経たメディアがいかに言論の自由を奪うのかを顧みれば、論外のことと言ってよい。つまり経営の論理と言論の自由の原理が必ずしも両立しないところに現代デモクラシ―のディレンマがある。このディレンマを乗り越えるために、われわれは具体的にどのようなことを念頭に置いてメディアを利用すればよいのか。読者サイドは何に注意しなければならないのだろうか。
反省的思考として「週刊新聞」が必要
まず、書かれていることを批判的に読む姿勢を養うことだ。外国の著名な新聞だから、権威ある新聞だから、などと考える必要はない。個人についてと同じで、いかに立派な人間でも神様ではないから、あらゆる問題について常に正しいわけではない。取材をしてウラ取り、記事としてまとめ上げるという厳しい仕事へのリスペクトは大事だが、書かれたすべてをそのまま信じることはない。
戦前活躍したジャーナリストの清沢冽は「現代ジャーナリズムの批判」(1934年)という文章で、次のような指摘をしている。人間の考えには「第一思念」と「第二思念」の2つがある。「第一思念」(First Thought)は最初に浮かんだ考えや感情。それに対して「第二思念」(Second Thought)は少しよく考えて改訂・修正したもの。つまり「第一思念」とは「感情、伝統」あるいは「習慣」などに由来する思考様式や行動様式が、反射的に生み出した考えである。これに対して「第二思念」とは「理性、すなわち教育と訓練の結果、そこに生まれ得る、反省的、批判的」な思考を意味する。清沢は明治期のジャーナリズムには「第二思念」が認められたが、その後、購読者が拡大するにつれ、読者の「第一思念」に阿るジャーナリズムが増えてしまったと嘆く。
日本には「週刊誌」(筆者も時々読む「週刊文春」や「週刊新潮」など)はあるが「週刊新聞」がない。事件の進行や事態の変化を刻一刻迅速に伝えるメディアは必要だが、事件や出来事の推移を一週間ほどして全体的な視点から論ずるような「第二思念」のメディアも必要なのだ。メディア報道には、(特にネットのニュースやSNSなどを介して入って来る情報は)日々起こっていることを、その日その日で消費され、あとは忘れ去られてしまうだけのものが少なくない。
SNSは危ないツールか?
リベラル・デモクラシーの中核にある理想は、意見の異なる人と共存するという精神だ。これは人間の自然な感情に背馳する精神かもしれない。それは知的な力や意志、強い寛容の精神といった、自覚的な努力で培われた能力によってはじめて生まれるからだ。現代のわれわれを取り巻くデジタル技術は、こうした精神にどのような影響を与えているのだろうか。異質なものを排斥し、人と同じであることが気楽でいいのだという心が国民の間に蔓延するとき、デモクラシーの危険な末路が待ち受けているのではないか。
ソーシアル・メディアが、メンタルヘルスや知的生活にどのような影響を及ぼしているのかを知ることは人類の将来にとって重要課題のひとつであろう。この点について大量のデータを駆使した分析は海外で数多く公表されている。経済学の学術誌で最近読んだ研究例をふたつほど簡単に紹介しておこう。
ひとつは、世界人口の半数以上がアカウントを持つフェイスブックが徐々に普及する過程で、学生のメンタルヘルスや学業成績にいかなる変化が起きたのかを検証した論文だ。(L. Braghieri et al. AER 2022, 112(11))データは、米国の775大学の学生の精神的・肉体的健康についての経年の調査情報も用いられる。43万以上というサンプル数の多さ、調査項目が、アルコール、薬物、性行動、メンタルな病の症状など多岐にわたっているのには驚くばかりだ。
いくつかの暫定的な推論のひとつは、望む場所で、望む時間に個人的・社会的情報を迅速かつ映像と共に容易に入手できる状況は、自己を社会的な「平均」や「多数」との比較に容易に走らせる。加工された情報が、人々を社会的に同質化させる方向へと向かわせるのだ。こうしたソーシアル・メディアをベースとする自己評価は、若者への精神的プレッシャーを強め、メンタルヘルスに関して負荷(うつ病など)をかける可能性があるという。
この負の影響は、集中力を阻害し、直ぐに答えの得られない問題に向き合う力を弱め、学業成績へも負の影響を持つと推測できる。因果関係を検出するためには、もちろん精神医学をはじめ他分野の知見が必要になろう。
もうひとつは、SNSで拡散されたフェイク・ニュースによって本当に人々の投票行動は左右されているのかを検討した論文である。(C. Angelucci and A. Prat , AER, 2024,114(4))しばしば指摘される「真理の死(the death of truth)」は本当なのかを分析した論文である。詳しく解説する紙幅はないが、大多数のアメリカ人はリアルなニュース・ストーリーを予想以上にしっかり把握していること、巧妙に作られ、広く流通したフェイク・ニュースを慎重に識別していることを約15,000人の個人データから検証している。そしてフェイク・ニュースに影響されるのは、一部の社会階層に限られていると指摘する。貧しく十分な教育を受けていない社会層が、十分な情報を得られないままに取り残されて、政治論争に参加できない状態に置かれていることが示される。この研究は、公職選挙の投票者の、年齢、性別、所得、教育、人種などの情報が含まれているので、結論をどの程度一般化できるのかについての議論の道を開いている点でも興味深い。まるでSNSが選挙結果を最終的に決定づけたような報道もあるが、そう結論付けるには時期尚早であり、個別ケースの考察がまだまだ必要なのだ。
SNSは両刃の剣のようなものだ。そもそも技術は「使い方次第」であって、技術自体は価値中立的であるはずだ。従って便利なデジタル技術も、その利便性のみに注目して称賛すべきではなく、メンタルな健康面への十分な配慮が求められる。
以上のような研究が示すのは、経済社会問題の研究テーマを選ぶ場合、新聞やSNSなどのメディアが発信する情報にだけに頼るのではなく、様々なデータに自ら向き合い、その過程で問題を見つけるという姿勢の大切さであろう。